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家事も育児もやってるのに、なぜか『すごい』って言われない問題

目次

今日も誰にも褒められないまま、家事と育児が終わる

私が主夫だった頃、毎日が「誰にも評価されない労働」だった。
朝6時に起きて、娘の寝顔を見ながら静かに台所へ向かう。
「今日はパンがいいかな、ごはんがいいかな」と考えながら朝食を準備していた日々が、いまも記憶に残っている。

食事ができたら娘を起こし、支度を手伝い、保育園へ送り届ける。
帰宅後はすぐに洗濯機を回し、掃除をして、買い出しへ。
昼食を済ませてからは、夕飯の下ごしらえをしてお迎えの時間に備える。
子どもが帰ってきたら、また怒涛の時間が始まる。

遊び相手になりながら夕食の準備、片付け、お風呂、歯みがき、寝かしつけまで。
すべて終わった頃には、時計は20時をまわっていることも珍しくなかった。

そんな一日を過ごしても、誰かに「すごいね」と言われることはなかった。
SNSでは、「旦那が今日はお皿洗ってくれた!最高のイクメン!」という投稿が並び、
私は心の中で「それ、毎日やってるけど?」と呟いていた。

家事も育児も、家庭をまわすには不可欠な仕事。
なのに、それを日常として担っている“主夫”は、なぜか「すごい」とは言ってもらえない。
あの頃の私は、そんな社会の空気に静かに、確実に、傷ついていた。

今はもう、親権はない。
でもあの時の生活があったからこそ、見えてきた問題がある。
この文章では、過去の自分の経験をもとに、「なぜ主夫は評価されないのか」を掘り下げていきたい。

社会はまだ「主夫」をどう見ている?

私が主夫をしていた頃、まず最初に感じたのは“社会の戸惑い”だった。
「主夫です」と名乗ると、ほとんどの人が一瞬、言葉に詰まる。
そのあと返ってくるのは、だいたい「へぇ…珍しいですね」「偉いですね」などの反応。

一見、褒められているようにも思える。けれど、それは“例外的な存在”としての賞賛であって、
本質的には「普通じゃない人」として扱われていたように感じていた。

「奥さんが働いてるんですね、すごい」「よくそれでやっていけますね」
悪気はない。けれどその言葉の裏には、
「本来、家事育児は女性の仕事」という無意識のバイアスが透けて見える。

主夫として生きるという選択は、当時の社会にとって“異質”だった。
スーパーで買い物をしていると、「今日はママがお休み?」と声をかけられた。

別に怒るほどではない。でも、積み重なると苦しくなる。
「主夫」という存在は、社会の中で“想定されていない役割”なのだと痛感した瞬間だった。

家族のかたちは多様化しているとよく言うけれど、
その実態はまだまだ「母が子を育て、父が外で働く」というモデルから大きくはずれると、
空気が変わるのがわかる。

私はあの時、「主夫であることを否定された」わけではない。
ただ、常に“想定外”の扱いをされ続けたことが、心をすり減らしていったのだ。

「手伝ってるだけで褒められる父親」とのギャップ

私が主夫として毎日家事と育児をこなしていた頃、ふと目にしたSNSの投稿に衝撃を受けた。
「今日はパパがオムツ替えてくれた!イクメン!」「お風呂に入れてくれた、ありがたい」
そんな投稿が、何千と“いいね”を集めている。

もちろん、その家庭ごとの努力は素晴らしい。
けれど、私が感じたのは、「たまにやるだけで褒められる父親」と「毎日やっても無言で受け止められる主夫」のコントラストだった。

私は、娘の食事を毎日作っていた。お弁当も、食べやすさを考えて工夫していた。
熱が出たときは、夜通し看病した。
でも誰かに褒められたことは、なかった。

一方で、外で働いている父親が、1日休みを取って子どもを預かると「すごいね!」と言われる。
その“基準の違い”が、私の心にぽっかりと穴をあけた。

社会には、「男性が子育てをするのは珍しい」という前提が根強く残っている。
だから“たまに”やると評価される。
でも“毎日”やっていると、それが当たり前になってしまい、見過ごされる。

皮肉なことに、「家庭のことを日常的に担う男」ほど、評価されにくい構造があるのだと思う。

主夫としてやっていたあの頃、私は褒めてほしかったわけじゃない。
ただ、自分がしていることの価値を「ちゃんと見てほしかった」のだ。

主夫の仕事は、なぜ“評価されにくい”のか

家事や育児は、日々の生活を支える重要な仕事です。
それでも「仕事」として認められにくいのは、いくつかの理由があると私は思います。

まず、成果が見えにくいという点。
洗濯物を干しても、食事を用意しても、子どもを笑顔で送り出しても、
それが“いつも通り”であれば、それは「やって当然」と扱われがちです。

会社なら「数字」や「売上」などで評価される。
でも家庭の仕事には、そうした可視化できる「成果」が存在しにくい。

次に、報酬が発生しないことも大きい。
給料という形での対価がなければ、「仕事」として認識されにくい社会通念があります。

さらに厄介なのが、“やって当たり前”の空気です。
特に男性が家庭に入っていると、「暇そう」とか「甘えてる」といった声を受けることもある。
実際、私も「男で専業って、何してるの?」と面と向かって言われた経験が何度もあります。

そのたびに、自分の存在価値がぐらつくような思いがした。
娘と向き合う毎日が、誰かにとって“空白”に見えているのだと思うと、悔しさでいっぱいだった。

でも、そうした“見えにくさ”の中にも、たしかに価値はある。
主夫の仕事は、家族を守るインフラを整えることだと、私は信じている。

「家庭内無名ヒーロー」たちのリアルな一日

あの頃の私の1日は、戦いの連続だった。
朝は6時に起きて、娘を起こす前に朝食と着替えの準備。
朝の支度を終えたら、保育園へ送っていく。
帰宅後は洗濯、掃除、買い出しと、止まる暇はない。

昼食をとる時間すら忘れることがあった。
夕飯の下ごしらえをしながら、明日の保育園の持ち物を確認。
午後には娘を迎えに行き、公園に立ち寄ることも多かった。
その後の流れは、夕飯→お風呂→歯みがき→絵本→寝かしつけ。

娘が寝たあとにようやく座れる時間が来る。
でもそのあとには洗濯物を畳み、保育園の連絡帳を書き、明日の準備をする作業が残っていた。

そんな毎日が、淡々と続いていた。
誰に褒められるわけでもない。
でも、私の中では「これは誰かがやらなければならない仕事」だった。

同じように、世の中には“見えない場所”で家庭を支えている人がたくさんいる。
その多くが、名もなき存在として今日も家を回している。
私たちは、家庭というフィールドで静かに戦っているヒーローなんだと思う。

自分で自分を認めるための小さな工夫

誰からも「すごい」と言われない日々の中で、私が身につけたのは、自分で自分を褒める習慣だった。
それは特別なことじゃなくて、本当に小さな工夫だったけど、精神的な支えになった。

たとえば、その日の「やったことリスト」をノートに書く。
それだけで、自分がどれだけ動いていたかが“見える化”される。
洗濯2回、買い出し、昼食の準備、娘のお迎え、夕飯、寝かしつけ…。
箇条書きにすると、「え、今日めちゃくちゃ頑張ってない?」と自分で思えた。

あとは、完璧を目指さないこと
外食に頼ってもいいし、掃除が1日飛んでもいい。
私は以前、寝かしつけの途中で自分が先に寝落ちしてしまって、朝方に「ごめんな…」と呟いたことがある。
でも娘は、何も言わずに笑ってくれていた。

自分を追い込みすぎないこと。
そして、誰も評価してくれないなら、自分が自分を認めてあげること。
それが、“無評価の世界”で自分を保つための大切な術だった。

私はもう親権を持っていないけれど、あの頃に学んだ“自分の肯定の仕方”は、今でも大切にしている。

周囲とどう関係を築くか|“理解されない”ときの対処法

主夫として子どもと生活していた頃、最も気を使ったのは“周囲との距離感”だった。
保育園の行事や公園、買い物先など、どこに行ってもママが中心の空間。
そこに男ひとり、しかも専業主夫として存在する私は、どうしても浮いてしまっていた。

最初は気後れして、誰にも話しかけられないまま帰ってしまう日も多かった。
でも、娘のためにもこの状況をなんとかしようと思い、少しずつ努力を始めた。

「おはようございます」とこちらから挨拶をする。
子ども同士が遊んでいる間は、あえてスマホを見ずに目を合わせる。
挨拶だけでも、3日、1週間、1ヶ月と続けていると、少しずつ反応が返ってくるようになった。

それでもやっぱり、全員に理解してもらおうとは思わないことにした。
人にはいろんな価値観があるし、「主夫」を珍しがる人や距離を取る人もいる。
でもそれは、その人の問題。私の価値とは無関係だと割り切ることにした。

また、無理解な言葉を投げかけられたとき、
「そうですね〜」と軽く流す術も身につけた。
真面目に説明しようとすると疲れてしまうから、スルー力も必要だと思った。

すべての人に理解を求めるのではなく、“わかってくれる人”とのつながりを大事にする
その意識が、私の心をずいぶん軽くしてくれた。

声を上げよう、「家事と育児はちゃんと仕事だ」

私が主夫をしていた頃、よく聞かれたのが「で、仕事はしてるの?」という質問だった。
それを言われるたびに、心の奥に針を刺されたような痛みを感じた。

家事も育児もしていれば、「働いていない」と見なされる。
日々、生活を支えている実感はあるのに、それが“仕事”として認識されない。
これは、私にとって強い疎外感につながっていた。

でも、はっきり言いたい。
家事と育児は、れっきとした仕事だ。
毎日やるべきタスクがあり、責任があり、時間も体力も使う。
しかも、多くは無報酬で、休みもない。

それなのに、社会はそこに価値を認めにくい。
企業で働くことだけが「労働」で、家庭での活動は「何もしていない」とみなされる風潮がある。

けれど、家庭という場所が機能していなければ、社会全体は回らない。
子どもを育て、安心して暮らせる環境を整えているのは、家の中で働いている人たちの力だ。

私は今、親権がなくなった立場だけれど、
あの頃、毎日娘のために行っていた“家庭の仕事”に誇りを持っている。

誰かが言ってくれないなら、自分で声を上げるしかない。
「主夫だって働いてる。家事も育児も、仕事だ」と、胸を張って言おう。

シングルファザーとしての経験談:すごくなくても、やるしかない

私がシングルファザーとして主夫をしていたのは、離婚を経て、しばらく娘とふたりで暮らしていた時期だった。
最初は、正直に言えば恐怖しかなかった。
自分が全部やらなければ、娘の生活も命も回らない。
それがプレッシャーとしてずっしりのしかかってきた。

でも、やるしかなかった。
娘が私を必要としている。
朝ごはん、着替え、登園準備、絵本読み聞かせ、お風呂、夜泣き対応。
そのすべてを通じて、私は娘との時間を生きていた。

あの時、誰かに褒めてもらいたかったわけではない。
ただ、「この努力には意味がある」と信じたかった
それを支えてくれたのは、ある日の娘の一言だった。

「パパのごはん、あったかくて好き」
たったそれだけで、胸がいっぱいになった。
社会がどう見ようと、この子が笑ってくれていれば、それでいいと心から思えた。

今はもう、娘と一緒に暮らしていない。
それでも、あの時間が確かにあったことは、私の中に生き続けている。
誰も見ていなくても、誰も褒めてくれなくても、
私は、ちゃんと父親として、主夫として、生きていたのだと今も思っている。

まとめ|誰も褒めないなら、自分で自分を誇ろう

主夫として過ごしたあの数年間、私は一度も「すごいね」と言われた記憶がない。
でも、毎日娘と向き合い、食事を作り、生活を整え、安心できる居場所をつくっていた。
それが“すごくないわけがない”と、今では思える。

社会はまだ、「家庭の中で働く父親」をうまく認識できていない。
だからこそ、私たち自身が声をあげなければならないのだと思う。
「家事も育児も、立派な仕事だ」と。

評価されないことは、つらい。
でも、それに潰される必要はない。
他人がどう見るかではなく、自分が自分の価値を信じられるかどうかが、いちばん大事だ。

あなたが今、ひとりで家事や育児をこなしているなら、
今日という1日をやりきった自分に、こう言ってほしい。

「誰も褒めないなら、私が私を褒めよう」

その言葉が、かつての私を支えてくれたように、今のあなたの支えになりますように。

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