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ごっこ遊びが謎すぎる!4歳娘の世界についていけないパパの話

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“ごっこ遊び”の記憶は、週末の再会で蘇る

「パパ、きょうは“プリンセスやさいレストラン”ね。パパはキャベツの国のしんじゅう王子!」

……キャベツの国?しんじゅう?野菜なのか貝なのか、どっち?

私は今、週に一度だけ、娘と会っている。親権はないけれど、週末になると30分でも1時間でも、こうして会える時間がある。

そのたびに思い出すのが、かつて一緒に暮らしていた頃の「ごっこ遊び」の数々だ。

あの頃は、毎日のように意味不明な設定で遊びに誘われていた。言葉のルールも展開も彼女の中で完結していて、私はつねに“配役ミス”を怒られてばかりだった。

当時は正直、ヘトヘトだった。でも今となっては、あの混沌とした時間が、愛しくてしかたない

この記事は、そんな「ごっこ遊び」と私の戸惑いと成長(?)を綴る回想録だ。

ごっこ遊び、第一難関「役が謎すぎる」

一緒に暮らしていた頃、夕食後のルーティンのように始まるのが「ごっこ遊び」だった。

私はソファに倒れ込みたい疲労感と格闘しながらも、「じゃあ今日は何する?」と尋ねる。

娘は目をキラキラさせて言う。「うんとねー、パパは“さかなくんのおにいちゃん”で、私は“パン屋のきょうりゅうのママ”!」

さ、さかなくんのおにいちゃん??パン屋で恐竜でママって何?

この時点で、私の頭は思考停止。しかも演技開始と同時に、彼女の頭の中には細かい設定がすでに完成していて、少しでもズレた発言をすると、

「ちがう!そうじゃないでしょ!」

と即座に怒られる。

「え、でもパパは魚売る人じゃなかった?」「ちがうよ!おにいちゃんは魚を持ってくるだけで売っちゃダメなの!」

……え、それはもう“売ってる”のでは?と突っ込みたくなるのをこらえながら、私の頭の中には「ごっこ遊びマニュアル」が欲しい…という悲鳴が響いていた。

でも、そんなふうに困っている私の顔を見るのもまた、彼女にとっては面白かったのかもしれない。

娘のルールは絶対!?「即興台詞劇」の世界

ごっこ遊びを一言で表すなら、“即興台詞劇(アドリブ芝居)”だ。

ただし、その脚本は私ではなく娘がすべて握っている。

ある日は「森のケーキやさんごっこ」。私は「空から来たおきゃくさん」として登場させられた。設定の段階で「お空の国のルールでしゃべって」と言われる。

「こんにちは」じゃなくて「ピヨンチュー」と言うよう指示され、「いただきます」は「ケキリシャマ」になるらしい。

もちろん私は毎回忘れる。何度も普通に「こんにちは〜」と言って怒られる。

「パパ、それちがうってば!もういっかい、ピヨンチューって言って!」

正直、笑ってしまう。

だって、「ピヨンチュー」って何?どこから来たんだその単語?

だけど娘にとっては大真面目だ。彼女の中では「空の国」はきちんと存在していて、その国の文化や言葉、挨拶や食べ物があって、私はその世界観を守らなければならない。

私はうっかり“セリフ”を間違えるたびにNGを出され、「本番」までリテイクが繰り返される。

気がつけば、私は彼女の世界の中で何度も「演じ直し」を命じられる立場になっていた。

「お店屋さん」でもガチで怒られるパパ

ある日、娘が「今日はおみせやさんごっこね!」と言って、ダンボールと紙皿を並べはじめた。

「いらっしゃいませ〜」という声に合わせて、私はお客さん役として登場。

「こんにちは、ハンバーグください」と言った瞬間、娘の表情が固まった。

「……ちがうよパパ、ここは“ケーキ屋さん”だもん」

しまった。紙皿の上の茶色い物体が、ハンバーグに見えた。だって色と形がどう見ても……。

「これはチョコケーキ。こっちはイチゴの山。で、これは“ピーマンまん”」

ピーマンまんってなに。

「ごめんごめん、じゃあこの“ピーマンまん”ください」

すると娘は、突然「店、しまいましたー!」とダンボールをバタンと倒して終了。

怒ってる……完全に怒ってる。

「パパはちゃんと見てないでしょ。いつもふざけるもん」

たしかにふざけた。というか、私からしたらそれは“ふざけてる”つもりじゃなく、“なにが正解かわからない”状態なのだが、彼女の目には明らかに“適当にしてる”ように映っていた。

この瞬間、私は理解した。

ごっこ遊びとは、「本気のやりとり」なのだ。

私が「適当」に見えてしまえば、彼女はそれを感じ取ってがっかりする。たとえそれが紙とガムテープでできた小さな世界でも、彼女にとっては現実なのだ。

逃げたいけど逃げられない、なぜなら…

正直、ごっこ遊びはしんどかった。

仕事でクタクタな日も、夕食後の洗い物が山積みの日も、「ごっこやろう〜!」の一言から始まる即興演劇に巻き込まれる。

「ちょっとだけ休ませて」が通用しないのが4歳児。リモコンを手に取ろうものなら「テレビはダメ!王様がくるのに!」と全力で止められる。

台本もない。終わりもない。こちらが疲れてグダグダになると、「もういい、パパへたくそ」とまで言われる。

……ちょっと泣きたくなる。

「逃げたい」と思ったこともある。でも逃げなかった。いや、逃げられなかった

なぜなら、彼女がそんなふうに全力で向かってきてくれる時間が、永遠じゃないと、うっすら気づいていたからだ。

彼女がこうして「パパ、遊ぼう」って言ってくれる日は、いつまで続くだろう。

きっとあと数年もすれば、「パパと遊ぶのダサい」と言われる日が来る。

そう思うと、わけのわからない役でも、謎のセリフでも、「演じてみるか」と思えてしまうのだった。

娘の一言に、グサッとやられた日

ごっこ遊びの最中、私はついスマホを手に取ってしまった。

「ちょっとだけ仕事のメール見るから、待っててね」

娘は黙ってうなずいた。ふだんなら「やだ!今やってるのに!」と怒るのに、その日は静かだった。

数分後、スマホを置いて「ごめんね、続きやろうか」と声をかけると、娘は小さな声でこう言った。

「パパ、ほんとはあそびたくないんでしょ」

胸にズシンときた。

そんなつもりはなかった。けれど、彼女にとっては“そう見えた”のだ。

私は全力で否定し、「パパはあそびたいよ。でも、ちょっとだけおしごとも大事なんだ」と説明した。

でもその言い訳がどれだけ響いたかはわからない。

その日は結局、ごっこ遊びは再開されなかった。

私は洗い物をしながら、静かになったリビングを見て思った。

彼女にとってのごっこ遊びは、ただの遊びじゃなかった。私とつながるための手段だったのだ。

そして私は、そのチャンスを自分から手放してしまった。

ごっこ遊びの意味に気づいたとき

あの日以来、私はごっこ遊びに対する意識を変えた。

「変な役ばかり」「セリフが謎」「終わりがない」――たしかにそうだ。でもそれ以上に、ごっこ遊びは、娘が私に話しかけるための“言葉”だった。

「ママがいない」「保育園でイヤなことがあった」「今日はさみしい」――4歳児はそんな気持ちを、うまく言葉にできない。

でも、ドラゴンのお姫さまになったり、空飛ぶラーメン屋になったりしながら、私とのつながりを確認していたのだと思う。

そして私も、全力で付き合ううちに、いつの間にか笑っていた。演じることに夢中になり、「もっとこうしたら面白いかな?」なんて考えるようになっていた。

「遊び」は、いつしか「対話」に変わっていた。

言葉では伝えられない気持ちが、紙コップと空き箱でつくった“物語”を通して、確かに私に届いていた。

今も続く“週末劇場”のありがたさ

今、私は彼女と一緒には暮らしていない。生活は別々だ。

でも、週に一度、ほんのひとときだけでも会える。

そしてその時間は、やっぱり「ごっこ遊び」から始まる。

リュックからぬいぐるみを取り出して「この子がきょうびょうきなの」と始まる遊び。

私が動物病院の先生をやったり、アイス屋さんのバイトをやったり。配役はだいたい“脇役”だ。

だけど私は今、それがどれだけ幸せなことかを知っている。

当時は毎日のようにあって、くたくたになっていた時間が、いまは「宝物のような1時間」に変わった。

そして私はもう、役を間違えない。ちゃんと「空の国のことば」も覚えたし、「ピーマンまん」の扱い方も知っている。

彼女の目の中にある世界に、少しだけ入れるようになった気がする

ごっこ遊びは、今でも続いている。

あの頃より短く、でもずっと深く。

大人には見えないけど、そこにある“世界”

「ごっこ遊びって、意味あるの?」

以前の私なら、そう思っていた。忙しい毎日の中で、時間も体力も削られる即興劇。

でも今なら、こう答えられる。

意味なんて考えなくていい。ただ、“そこにいること”が大事だったんだと。

娘のなかにある無限の世界。そこに入れてもらえることが、どれだけ貴重で、かけがえのないことだったか。

今はもう一緒に暮らしていないけれど、週に一度の“再会”で、彼女はまた「ごっこ遊び」で私をその世界に招いてくれる。

紙コップひとつで魔法が使える世界。

ティッシュのかけらが宝石になり、靴下がドレスになる世界。

大人には見えないけど、確かにそこにある“物語”を、私はこれからも大切にしたい。

ごっこ遊びは、ただの遊びじゃなかった。

娘が私に手渡してくれた、小さな小さなラブレターだったのだ。

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