5分で飽きた娘、黙々とレゴを組み続ける私
クリスマスの朝。包装紙をビリビリと破りながら、娘が「わー!」と声をあげた。贈ったのは、ちょっと豪華なレゴセット。
小さな女の子の手には少し多すぎるくらいのパーツ数だったけれど、それも思い出になるかなと思って選んだ。
最初の数分は一緒に遊んだ。箱を開けて、パーツを広げて、「ここかな?」「これかわいい〜!」なんてやり取りをしながら。
でも、5分もすると娘は別の遊びに夢中になっていた。
残されたのは、細かいパーツが山になったテーブルと、私の前に置かれた説明書の束。
──さて、やるか。
その瞬間から、私は“レゴ職人”としての精神修行を始めることになった。
「仕事脳」がレゴをつまらなくする
娘にレゴを渡しておいて、私はただ一緒に遊ぶだけのつもりだった。
けれど、彼女がすぐに興味をなくしたあと、私はひとりで組み立て始めた。
ふと気づくと、頭の中が仕事モードになっていた。
「まずは全部のパーツを分類して、効率よく…」「次のステップで使うパーツを事前に用意して…」「いま何工程目だ?」
これは、楽しい遊びだったはずだ。なのに、私は無意識にスケジュールと成果を求めている。
娘と過ごす時間も、効率化の対象にしてしまったのかもしれない。
説明書通りに組めるかどうかばかり気になって、少しでも間違うと自分を責めてしまう。
目の前のブロックより、心の中の「うまくやらなきゃ」にばかり集中していた。
レゴは子どもより親にとっての修行である
小さなブロックを指先でつまみながら、私はふと自分の顔が険しくなっていることに気づいた。
「遊んでる」なんて言えない集中の仕方だった。これはもはや作業。いや、修行だ。
パーツはとにかく小さい。しかも似たような形がたくさんある。1ミリずれただけでハマらない。
説明書の図も意外と不親切で、奥行きがわかりづらい。何度も組み直す。
途中で「足りない!?」とパニックになるが、大抵は目の前にあって見落としているだけ。冷静さを失った自分にまたイラつく。
集中しすぎて肩がこり、首が痛くなる。呼吸が浅くなっていることに気づいて、深呼吸する。
それでもやめられない。もう意地だ。
子どもと一緒に笑うはずだった時間が、ひとり無言で耐える時間になっていた。
レゴはもう、あの家に置いてきた
あのクリスマスに一緒に開けたレゴ。
今はもう、私の手元にはない。
娘の家にあるまま、きっと少し崩れて、ホコリをかぶっているかもしれない。
私があのとき組み上げた街は、まだ形をとどめているだろうか。
ふとしたときに、「これパパが作ったやつだ」と思い出してくれることがあるだろうか。
もう遊ぶことも、手に取ることもないけれど。
あのときの「パパつくって~」の声は、今でも心のどこかでちゃんと響いている。
まとめ:レゴは修行。でも、報われる修行だった
レゴを通して、私はあらためて「子どものために何かをすること」の意味を考えた。
あれほど好きだったはずの遊びが、今では肩に力の入った“タスク”になっていた。
でも、やりきった先にあったのは、娘の「すごーい!」という笑顔だった。
効率や手順では測れない、ちいさな達成感。
レゴは、思った以上に親の精神を試してくる。でも、乗り越えた先にしか見えない景色がある。
それは、ほんの一瞬の娘のまなざしだったり、「またつくってね」の言葉だったり。
あの時間は、修行だった。でも、報われる修行だった。