第1章 潮騒と兄妹
白帆町は、日本海沿いにひっそりと佇む人口800人ほどの小さな町だった。町の東側は断崖絶壁、西側は穏やかな入り江と白い砂浜が続いている。
律が小学1年生に上がった春、妹の結はまだ年長だった。二人は両親とともに海辺の古い民宿を営む家に暮らしていた。
律は静かな少年で、ノートに潮の満ち引きを記録するのが日課だった。結はよくしゃべり、町の大人たちと打ち解けやすい子だった。
「律くん、今日の潮はどう?」
「大潮だよ。午後には浜が広がるよ。」
そんな何気ない日常が続いていたある日、春の終わりの夜、突如として町の沖合に閃光が走った。
「隕石……だって!?」
大人たちが慌てて海辺に駆け出す。律と結も親に連れられて見に行くと、沖合の海面に**青白い光の輪**が揺らめいていた。
翌朝、海は平穏を取り戻していた。しかし、それから町の空気はどこか微妙に変わっていった。
第2章 食い違う記憶
隕石の落下から数日が過ぎた。
町に大きな被害はなかった。むしろ不思議なくらい、あの閃光のあと何も変わっていないように見えた。
けれど、律は気づいていた。
いや、結のほうが先だったかもしれない。
「ねえ、お兄ちゃん。あそこのお店って前は床屋さんだったよね?」
「ううん、パン屋だったよ。」
ささいな違和感だった。けれど次第に、町のあちこちで記憶のズレが重なっていく。
・校長先生の出身地が人によって違う
・魚屋の名前が「ひらた」か「ひらだ」かで住民が対立
・誰もが「昔からそうだった」と確信しているのに、合わない
律と結は不安になり、母に尋ねた。
「お母さん、昔うちの民宿って、名前変えたことある?」
「ないわよ。ずっと『汐風荘』よ。」
けれど、律は見たことがあった。屋根裏にあった、別の名前の看板を。
『月波館(つきなみかん)』
母に言っても「そんなの知らない」と笑われた。
でも父は、妙に真剣な顔で黙っていた。
町の「ズレ」は、どうやら**家族の中**にも入り込んでいるらしい。
その夜、律は夢を見た。
月のように光る隕石が、波の向こうに沈んでいく夢。
第3章 消えた日記と波打ち際の声
律は、自分の潮の記録ノートをめくっていた。
けれど、隕石が落ちた日の記録がまるごと消えていた。
「お兄ちゃん、ノートのページ、破ったの?」
「破ってないよ……そんなはずない。」
ページの端には、破った跡も消した跡もなかった。ただ、その日だけ**白紙**になっていた。
その日、町の図書館でも異変が起きていた。
「港の昔の写真アルバムがなくなっているんです。」
図書館の司書が困惑していた。
律と結は、放課後に海岸へ向かった。
沖合に隕石が沈んだあたりを見つめていると、不意に潮風にまじって**かすかな声**が聞こえた。
「……きこえる?」
二人は顔を見合わせた。
「結、聞こえた?」
「うん……女の人の声?」
声は波に溶けるように消えていった。
律は翌日、祖母の家を訪ねた。
祖母は昔のことに詳しい人だった。
「ばあちゃん、昔この町に『月波館』って宿があった?」
祖母は目を細めて、しばらく黙っていた。
「……律や、そんな名前、昔はよく聞いたけど……」
「けど?」
「この町にはそんな宿はなかったって、みんな言っとるよ。」
祖母の声は震えていた。
律ははっきり悟った。**何かが、この町で塗り替えられている。**
第4章 兄妹の誓いと小さな探偵団
律と結は、家族にも先生にもこの「記憶のズレ」を真剣に話すことができなかった。
信じてもらえない。
信じても、怖がらせるだけだ。
だから兄妹は、二人で“誓い”を立てた。
「この町の本当の姿を、私たちが見つける」
そして、秘密裏に動き出すために、もうひとつ作戦を立てた。
「探偵団を作ろう。仲間がいればできることが増える。」
メンバーに選んだのは、同じ小学校に通う風間遥(かざま はるか)と、町の寺の息子・圭祐(けいすけ)。
遥は図書室のヌシのような博識少女。圭祐は妙に大人びた観察眼を持っていた。
「いいけど、隕石とか記憶が変わったとか、マンガみたいな話じゃない?」
遥は半信半疑だったが、町の古地図を見せると表情が変わった。
「……港の位置が、今と違う?」
圭祐は寺の蔵にあった古文書を持ち出してきた。
そこに書かれていたのは——
『西の海に落ちた石より、時間の綾が乱れる。
月に見える石、決して目を合わせてはならぬ。』
「これは百年前の住職が残したものだよ。」
四人は、ついに“町の謎”を追うための探偵団を本格始動させる。
名前は『潮騒団』。
その第一のミッションは、
「記憶のズレを記録する」ことだった。
「真実はきっと、消えてない。ただ、上書きされてるだけ。」
律はそう信じていた。
第5章 月の石と鏡の町
潮騒団は毎日放課後に集まり、町のあちこちを歩いた。
人々の話をさりげなく聞き、昔の写真や記録を集めていく。
律の潮のノートも復元を試みた。
ある日、町の古道具屋で結が不思議なものを見つけた。
「お兄ちゃん、これ……」
それは、小さな丸い石。
月の光を閉じ込めたような、青白い輝きがあった。
「この石はね、沖で拾ったんだって。」
店主の老人は言った。
「拾ったのはいつですか?」
律が聞くと、老人は首をひねった。
「……さぁ、先週だったかな、先月だったかな……」
記憶が曖昧だった。
圭祐が寺に戻って調べると、同じ石の絵が古い巻物に描かれていた。
**『鏡石(かがみいし)』**。
触れる者の記憶を写し、乱す石だという。
「やっぱり、隕石はただの石じゃなかったんだ。」
その夜、律は夢の中で再びあの声を聞いた。
『……時の形を正して……』
翌朝、町の中央広場の噴水が**鏡のような水面**になっていた。
そこに映る町並みは、ほんの数年前とはまるで違うものだった。
律は確信した。
「この町は今、まるごと鏡の中にいる。」
「本当の町と、写しの町がズレたまま、同時に存在しているんだ。」
その仕組みに気づいたとき、兄妹はひとつの仮説にたどりついた。
「もし、この石が力の源なら——戻せるかもしれない。」
第6章 22歳の春、最後の選択
時は流れた。
律は大学に進学し、一時町を離れていた。
結は地元の高校を卒業し、町に残っていた。
潮騒団の活動は途切れがちになったが、それでも兄妹は定期的に情報を交換していた。
町の記憶のズレは続いていた。
あるときは収まったかに見え、あるときは急に広がる。
だが、**石の力の周期**があることがわかってきた。
22年に一度、大きな変化が起きる。
隕石が落ちたあの春からちょうど22年目の春——今年だった。
「兄ちゃん、戻ってきて。」
結から律に連絡が入った。
律は迷いなく町へ戻った。
潮騒団の面々も再集結した。
風間遥は図書館司書になり、圭祐は住職を継いでいた。
「今夜、鏡石の力が最大になる。」
圭祐が言った。
町の広場には、再び鏡の水面が現れていた。
「どうする? もし町の記憶を『正す』ことができたら——でも今の記憶はもう、それぞれの人生の一部だ。」
遥が静かに言った。
律は結を見た。
「この町が好きだ。たとえズレたままでも。」
結の声はまっすぐだった。
兄妹は手をつないで鏡石に触れた。
——その瞬間、律の心に**かつての夢の声**が響いた。
『正しさより、選びなさい。あなたたちの町を。』
律は目を閉じ、言った。
「……このままでいい。記憶はズレても、人は今を生きている。」
結が続けた。
「だから、私たちは『今の町』を選ぶ。」
光が消え、鏡石は砕け散った。
町は静かに朝を迎えた。
ズレはそのままだった。
けれど——
「お兄ちゃん、潮のノート。ページ、戻ってるよ。」
消えていた記録が蘇っていた。
それは**過去も未来もすべて肯定する選択**だった。
律と結は見つめ合った。
「これからも、きっと大丈夫だよね。」
潮騒の音が二人の背を押していた。
エピローグ
数年後——。
律は東京で研究職に就き、結は町で民宿を継いでいた。
潮騒団の仲間たちも、それぞれの道を歩んでいる。
町の記憶のズレは依然として存在していた。
「港は昔どこにあったか」
「誰がどこで何をしていたか」
そのたびに意見は食い違う。
けれど、それが**町の一部**として受け入れられていた。
町には「潮騒祭」という新しい行事が生まれていた。
**『町の記憶を語り継ぐ祭』**だ。
みんなで違う昔話を持ち寄り、歌や舞で表現する。
正しさではなく、多様な記憶を祝う祭りだった。
律は休暇で帰省し、結と夜の浜辺を歩いた。
「兄ちゃん、覚えてる? 鏡石のとき、私たちが選んだこと。」
「覚えてる。きっと、あのときの選択で町は救われたんだと思う。」
「……でもたまにね、夢で見ちゃうんだ。
もし、全部の記憶が一つに戻った町も、見てみたかったなって。」
律は微笑んだ。
「それも、今の町の夢の一部さ。」
潮騒は今夜も静かに響いていた。
——たとえ記憶がズレても、
この町の**今**は、確かにここにある。